2006年9月 9日 (土)

スーザン・ソンタグ『良心の領界』序文の原文

スーザン・ソンタグの本には、日本語でのみ出版されたものがいくつかある。その一つ、『良心の領界』の冒頭を飾る、「若い読者へのアドバイス…」の一行で始まる序文は、短く読みやすいが、大変含蓄がある。ソンタグの数々の「ラディカルな」批評を貫く、生きる上での信念が表れている、という印象を持った。世間でも人気があるようで、ブログに勝手に全文を引用しているのが散見される。

ところで、この序文を、『良心の領界』のための書き下ろしと思う人もあるようだが、調べてみると違うということが分かった。私は原文が知りたくて、それらしき英語で検索してみたのだった。

序文の内容は、そのほとんどが、2003年にソンタグがVassar Collegeの卒業式で行ったスピーチに含まれている。両者の違いは、恐らく文章の書き始めという性格から、序文の冒頭部分がスピーチには含まれていないらしいことと、"Try to imagine at least once a day that you are not an American."で始まる下りを、アメリカ人に限定しないように言い換えていること、序文の締め括りの言葉が
スピーチでは違う箇所にあることぐらいだろうか。

それでは、そのスピーチの内容を掲載したウェブサイトを紹介しよう。全文を記載した所はなく、抜粋箇所が少しずつ異なっていることに留意されたい。

なお、「傾注する」は"pay attention"、「良心の領界を守って下さい」は"Protect the territory of conscience"である。

最後に、序文が単にスピーチからの引用と考えるのは早計であることを指摘しておきたい。ソンタグがここで述べていることは、彼女が語っている通り、彼女が常々考えていたことであり、同様の内容は他のエッセイにも垣間見ることが出来るからだ。その一例が、次の文章。ここでは、"attentive"という言葉も用いている。

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2005年1月 9日 (日)

河口慧海『チベット旅行記(上・下)』(白水μブックス)

何せ素晴らしい本があったものだ。1967年刊「西域探検紀行全集 7」の改題。

明治33年、まだライト兄弟の飛行機が飛んでいなかった時代に、鎖国のチベットに求法の旅に出た日本人がいた。つてを作りながら、チベット語の他、ネパール語まで習得し、日常会話だけでなく専門家と仏法の議論まで行なう。不十分な装備で、雪の中、山越えをする。万事急すとなると、瞑想してエイヤと決断して突き進む。チベットでは周囲にチベット人と思わせて修行する。観察眼は面白いし、東北大学に残されている、生活用品から仏具までの収集品も興味深い。(東北大学総合学術博物館 河口慧海コレクション)昔はこういうバイタリティ溢れ、新進の気質に富むたくましい人がいたのだなあと感慨深い。

この本を探し求めたきっかけは下のニュースだった。

河口慧海の日記見つかる チベット潜入、克明に記録


 明治時代に日本人として初めてチベットに潜入し、当時の貴重な記録を残した僧侶である河口慧海の著作「西蔵旅行記」の基になった日記が、東京都内に住む慧海のめい、宮田恵美さんの家で見つかった。
 慧海は旅行記で国境の地名を伏せているため、ヒマラヤを越えてチベットに入ったルートは謎に包まれてきた。日記には地名が具体的に記されており、高野山大の奥山直司教授は「ルート解明につながる可能性があり、ヒマラヤ・チベット研究においても意義が大きい」と話している。
 日記は、ほぼB4サイズの紙を2つ折りにした横書きの計66ページ。ネパールにいた1900年3月から、チベットのラサに到着する直前の同年12月末までの行動が記録されている。
【徳島新聞】2004年12月23日

河口慧海:「チベット旅行記」の元? 日記発見


 約100年前にヒマラヤを越え、日本人として初めてチベットを訪問、「チベット旅行記」を書いた僧、河口慧海(えかい)(1866〜1945)が旅行記の元にしたとみられる日記が、東京の親類宅で見つかり、日本山岳会関西支部メンバーらで作る「河口慧海研究プロジェクト」(座長、高山竜三・元京都文教大教授)が23日会見した。旅行記では書かれていない地名が多数登場し、研究者らは「ナゾとされていた入国ルートがほぼ解明される貴重な発見」としている。

 日記は慧海がネパールに滞在中の1900年3月からチベット・ラサ近くに到達する同年末までのもので、B4大の紙33枚にペンで横書きにびっしりと書かれている。シミン、コマンなどの地名が書かれ、実際の村の名前と一致。シェー・ゴンパ(寺)に参拝した後、ヤムデル(ヤンツェル)を通過し、国境越えの後、チベットのネーユに到達したと記録されている。

 旅行記では、密入国のため協力者が処罰されることを恐れ、現地の地名は伏せたとみられる。このため越境ルートは多くの研究者、登山家らが解明に挑んだものの、これまで「幻」だった。今回、ヤンツェルとネーユを通ったことが分かり、この間の詳細部分を残してルートはほぼ解明されたという。同プロジェクトはさらに現地調査を行い、全容解明を目指し、日記の内容を合わせて報告書にまとめる予定。

 このほか、旅行記では1人とされたネパールでの案内人が実際には2人だったことなども判明。高山座長は「日記は非常に克明。読経や座禅もしており、寺にも参るなど宗教者としての旅だったことがよく分かる。一方で下痢や頭痛に悩まされるなど人間的な面が垣間見える記述も多い」と話している。

 慧海は大阪府堺市出身。「西蔵(チベット)旅行記」は、当時の大阪毎日新聞に139回連載された。
【毎日新聞】 2004年12月23日 20時22分

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2004年11月27日 (土)

藤原正彦『若き数学者のアメリカ』(新潮文庫)

今よりドルが高く、留学も一般的ではなかった、1972年のエッセイ。英語圏の生活への不慣れさは今の時代からみると大げさかも知れないが、アイデンティティーを自問し、その後新たに構築していく公私に渡る人間関係の中で、欝状態を脱して充実した生活に変化していくところは、今と共通の感覚だろう。医者の勧めでどんよりしたミシガンからフロリダに遊びに行き、そこでの出会いに快活さを取り戻し、コロラド大のポストを得るまでの下りでは、再生の過程が鮮やかだ。また、学生の観察、大学教授とのつき合い、教授の考えの相違を描きだすところは、緻密で楽しめる。

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2004年8月13日 (金)

『チャーズ』遠藤誉

内容はこちらで。遠藤誉さんは物理学者だそうで、本を読んでも大変頭の良い女性だと分かる。ちなみに、山崎豊子が『大地の子』で盗作したと思われる本。(裁判では無罪、しかし限りなくクロ。)

『中国がシリコンバレーとつながるとき』という著作もあり。

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2004年7月17日 (土)

"Damodaran on Valuation", Aswath Damodaran

仕事柄、ついに買ってしまった、Valuationのバイブル。8200円也。
It's nearly a 400 page book but it has some sections that are not relevant to valuation methods that investment bankers usually rely on, such as option pricing model. I am a person who is often attracted by rigourous theories which are based on mathematics, but I have to skim through this book, since now those theories themselves are obviously nothing to do with my carreer goal.

同時に、広瀬『財務会計 第4版』(中央経済社)、高田『本当に分かる管理会計&戦略会計』(PHP研究所)を購入。
3冊合わせて、約1万5千円也。

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2004年2月19日 (木)

『竹の本』 寒竹と四方竹 (2/2)

寒竹の地下莖は、鞭につくつて調子がいゝ。よく嫋つて丈夫だからだ。『日本竹譜』にも、「寒竹の根は鞭として甚だ貴重のものなり。徃時は將軍家の外、用ゆる能はざりしといへり。最も鞭は密節なるものを貴しとす。小野ノ高秤(たかはかり)と稱し、左手を伸ばし、右の乳頭より左手の中指末に達する長さを法とす。その内、柄を六寸とし、その餘三十三節あるものを免許鞭(ゆるしむち)と稱し、乘馬家の貴重する所なり。されど三十三節ある鞭は甚だ稀なり。」といつてゐるやうに、昔はこの竹の鞭は、ずゐぶん尊重されたものらしい。
 四方竹も寒竹も、共に庭に眺めて風情がいゝ。だが、これはつくられた形の四方竹であり、歪められた(かたち)の寒竹である。庭の形式を整へる爲の虚僞の姿でしかあり得ない。ほんたうの竹の容、そしてその持味は、枝葉を思ふ存分に展げた自由無碍の姿の裡にあらねばならぬ。
 菖蒲山には、四方竹はなかつた。單なる口頭傳承のつくりごとだつたのか、山の隅々まで探してみたが、一本も見當らなかつたのである。だが、今で思へば、私は目の當り四方竹を見てたんのうするより、紅い椿の咲いた幻の世界に、夢に生かしておいた方が、美しいやうにも思はれてならない。夢のやうな國の、夢のやうな語り草、――今でも私の頭には、幻の四方竹が美しく生えてゐて消えようとはしない。

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2004年2月13日 (金)

『竹の本』 寒竹と四方竹 (1/2)

 傳説の竹はずゐぶんと多い。矢竹、淡竹、蓬莱竹、苦竹(まだけ)、雲紋竹、女夜叉竹、それに積古丹竹などが數へられる。四方竹のは、まだ見たことはなかつたが、いつかある書物で、越後國峯岡村竹野町の菖蒲山(あやめやま)に源賴政の妻菖蒲ノ前の建てた觀音堂があり、そのあたりに茂つてゐる四方竹は、もし春三、四月の頃に伐り取ると、その年は雨が多い、といふ傳説のあるのを知つた。
 で、私はそれを見に、越後にいつたことがある。だが、どうしたものか往つてみると、それらしいものは一本もなかつた。私はその時、住職にでも訊けば分るだらうと思つて、本堂の横で聲をかけてみたが、寺からはいつかうに返事がない。いくら呼んでも聲一つしないのだ。變だと思つて、あたりを見廻してゐたら、
「寺は今、誰もおらんがな。」
と、庫裡の方から聲がした。爺やと、もん平姿の()とがそこに立つてゐたのだ。
「住職は? どこか用たしにでも。」
さういつて私は訊くと、
「いゝえ、宣撫班で戰地に……。」
と、こんどは娘が應へた。年頃のきれうのいゝ娘だ。
 娘の話によると、寺は今住職ばかりではなく、二人の僧侶までもが、――一人は砲兵、一人は歩兵で出征して、ほんたうの殼だつたのである。娘は住職の娘で、爺やと二人でこゝ三年越しの留守をしてゐるのである。
 居留守の者にきいたところで、竹のことなど分ろう筈はないと思つたが私は竹を見にわざわざ訪ねて來たわけを話すと、爺やは、
「ハハア、さうですかのう。でも、こゝにはそんな四角な竹は……。」
と、たよりない返事である。
 どうにも仕樣がなくて、私は寺の後ろへ廻つてみた。もしやそこらあたりにでもと思つたのであるが、そこにはそんなものは一本もない。わつさりと繁った苦竹が、唯あるばかりであつたのだ。
「竹はこれと、あの孟宗竹と、二つだけですがねぇ、ハア。」
 私に從いて、いつの間にか娘はそばに來てゐたのだ。
寺を一廻りしてみたが、やはり四方竹はない。本堂の裏手には、矢竹がいつぱい茂つている。ひどく葉の細い矢竹だ。ちよつと見ると四方竹のやうであつたが、よくみるとやはり矢竹なのである。葉の細いのは、澤山に枝を岐けた老株だからである。
 四方竹は元來、暖國の産だ。本州中部以南によく育つ。『丹洲圖竹』に、四方竹はもと肥後國の産だとあり、また『本草綱目啓蒙』にも、琉球から渡來したものだ、と載ってゐるのをみても分る。今でも九州の産は、稈のまわり四、五寸から六寸ぐらゐあるが、東京のものは、やつと一寸五分か二寸ぐらゐにしか及ばない。
菖蒲山は、四月の末でもまだ寒い。後二、三日で五月にならうといふのに、菜種の花が畑に黄色く、普賢象の蕾が雪の山から吹き下ろす風でゆらゆらと搖れてゐたりする。時折鶯の聲さへきくのである。こんな寒いところに、もし四方竹があつたら、その稈はどんなにか細からうと思つてゐたのであるが、四方竹はたうとう見つからなかつた。

(續く)

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随筆『竹の本』 竹内叔雄

昭和17年に刊行されたこの本には、私が大学生だったとき、京都の古本市で初めて出会った。数多くの竹の紹介を盛り込んだ、品の良い随筆に惹かれた。取り立てて値段が高い部類ではなかったが、学生らしい判断で、この本は買わなかった。その後、もう一度別の古本屋で見たが、模様眺めするうちに、今度は植物学が専門の大学教授が購入していったそうで、機会を逃した。東京に引っ越してもその本のことは記憶から消えず、神田の古書店を探し始め、2年ほど経ってようやく手に入れることが出来た。古書の世界では比較的名の通った本らしい。
次回から、私を数年越しの購入に駆り立てたその随筆を掲載する。

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